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抒情詩のような歴史・文化

メソポタミアは皆さんに、初めての文明や唯一の文明へ誘います。ユーフラテス川やチグリス川が命を与えているこの土地で、紀元前10.000年前に始まり、今日まで続いてきた文明の歴史が、皆さんに比類のない歴史的、文化的体験をさせてくれるでしょう。この地は少なくとも4000年来「ナン(パン)」、「ケバップ」といった言葉がずっと使われ続け、ここを訪れては去っていった無数の文明の軌跡と文化を受け継いでいます。

メソポタミアの文明史はビョベックリ・テペの発見で、12.000年前にまでさかのぼることになります。世界的に有名な最古の記念碑的神殿であるギョベックリ・テペは、文明の歴史を変え、考古学界を根底から揺るがしました。ギョベックリ・テペの発見は、狩猟・採集生活から定住生活への移行、政治や経済組織の構築、その後に信仰が誕生したという順序を覆してしまいました。ギョベックリ・テペの人々は狩猟採集生活をしており、このギョベックリ・テペ規模の記念碑的建造物を造れるほど政治経済的組織を有していました。つまり、ギョベックリ・テペでは、人間がはじめ信仰を持ち、その後に定住して今日の社会の基礎を築いたのです。ギョベックリ・テペ、ネヴァリ・チョリ、ハッラン・チェミ、ギュルジュ・テペなど数知れない先史時代の集落からの発掘品が展示されている、現在トルコ最大の博物館であるシャンルウルファ博物館、世界最古の彫刻が発見されたバルックル・ギョル(魚の湖)は、先史時代の我々の先祖の軌跡を見せるために、皆さまをメソポタミアへ招待しています。

ウルファとディヤルバクルの間にある活火山であるカラジャダーの裾野にやってくると、文明史におけるマイルストーンである農耕革命の跡を見ることが出来ます。パンのもとである小麦の最初の野生種スィイェズ(アインコーン)小麦は未だにここにあります。10,000年前と同様に野生のまま存在しています。人間がこの小麦の種を採取して増やし、蒔いて収穫するために栽培し始めたのです。生産を増やしていき、より多くの人口を養う食物となりました。農業と人口は、仕事を生み出し、そこから社会階級が生まれました。最初の村はこのようにしてできました。村の名士、僧、兵そして王が現れました。こういった村々はその後都市へ、さらには帝国へ発展し、最後には現在の国民国家が誕生しました。すべてはメソポタミアの山の裾野に生えていた野生の小麦が栽培されるようになり、農業革命が行われたことに起因しています。

ウルファのギョベクリ・テペからディヤルバクル、エルガニ郡のチャイオニュにかけての集落は、先史時代の我々の先祖の軌跡を、切れ目なく見ることができる重要な場所です。映画インディ・ジョーンズのモデルとなったアメリカ人考古学者ロバート・J・ブライドウッドと、我が共和国が誇る女性考古学者ハレット・チャンベルが共同発掘を行ったこの遺跡には、人類が狩猟採集生活から定住生活へ移行し、農業を始めるまでのすべての過程の跡が残っています。チャイオニュは我々にまた別の初めてのものを示しています。人類はここで丸い形の建造物ではなく、碁盤の目状の建造物を初めて建築し始めました。現在直角に交わる路地や大通りを有する都市の原型が、初めてチャイオニュでできたのです。

メソポタミアはまた、初めて政治組織、つまり都市国家が誕生した場所でもあります。メソポタミア文明のひとつ、シュメールの人々が文字を発明したことから歴史が始まりました。シュメール文明が下メソポタミアで顕著に存在していたとはいえ、ギョベックリ・テペの発見は、野生小麦がカラジャダーで栽培され始めたこと、現在アタテュルク・ダムの底に沈んでいる数知れない先史時代の集落、東南とロス山脈の裾野で初めて家畜化された牛、羊、ヤギ、ロバは、シュメール文明がトルコのメソポタミア地域で開祖的役割を果たしたことを物語っています。バシュル古墳にある目の大きなシュメールの神、近東でも最古のゲーム用の石は、現在バトゥマン博物館に展示されています。ギルガメシュ抒情詩にも登場するタブレットのうちのひとつもハッラン近郊スルタンテペで発見され、ウルファ博物館で展示されています。ギルガメシュ抒情詩に登場する、ギルガメシュ王がエンキドゥとともに殺しに行ったフバンバの魔法にかけられたレバノン杉の森は、現在のアドゥヤマン―ディヤルバクルの山々だったのでしょうか?ウルクの都市へ森最大のレバノン杉の木で扉を作り、この扉をユーフラテス川からイカダでウルクに運んだということですから、その森は上メソポタミア地域のどこかであったはずです。

シュメール人を蹴散らし、アラビア半島からメソポタミアへ移動してきたアッカド人たちは、紀元前2000年以降帝国を建てました。歴史上最大かつ最強の秩序を持つ軍隊を設立したアッカド人たちは、シュメールの遺産を受け継ぎ、上メソポタミアの山々までのいたるところを支配しました。有名なサルゴン王に歴史上初めて「世界の王」という称号が用いられました。現在この地方で話されているアラビア語、アラム語、スルヤニ語といったセム語系言語の原型であるアッカド語もこの地方にもたらされました。これ以降、アッカド語は日常生活のみならず、外交や商業においてもシュメール語にとって代わりました。

カゴに乗せて川に流される子供の人形の話は、アッカド王サルゴンの物語として初めて登場します。アッカド人たちにとってメソポタミアの動脈であるユーフラテス川とチグリス川は神聖なものでした。特に上チグリスとユーフラテス地域とアマノス山脈(ヌル山脈)は、アッカド人にとって大変重要な地域でした。南メソポタミアで使われる材木はすべてアマノス山脈からのものでした。このため、アッカド人たちはメソポタミアの西岸の境にあるアマノス山脈を「銀の山」っと呼んでいました。ナラム王―シンの時代にアッカド軍はディヤルバクルまで到達し、ディヤルバクル近郊のピル・フセイン古墳に、ここで繰り広げられた遠征を祝う石碑が立てられました。

その後メソポタミアの歴史の舞台には、現在のアナトリア文化に大きな影響を与えた、書や商業のアナトリアでの発展を促したアッシリア王国が登場します。定住生活、農業革命、政治の組織化以降、人類はまた別の段階へ突入しました。人類史において、組織化、記録化されたかなり洗練された商業が始まったのです。紀元前1920年から紀元前750年の間にアナトリアでは多くの隊商取引が行われました。アンテップ、キリス、ウルファ、ディヤルバクルといった、今日でも重要な商業の中心地である都市は、今から3000年前にはもう商業街道上にありました。それはバビロンから始まり、カイセリ付近のキュルテペ(カニシュ/ネシャ)までの街道でした。アッシリアの商人たちはメソポタミアで生産された製品とともに、イランやアフガニスタンから持ってきたスズを売り、そのお金で金や銀を買っていました。約800㎞の距離の商業街道を行くのは、ロバに乗って平均2か月かかりました。上ハブル地方からの道は西へ向かい、今日のハッランからカラカムシュへ到達していました。ビレジック付近からイカダでユーフラテス川を渡り、その後アンテップとマラシュを通ってトロス山脈を越え、カイセリのカルムまで続いていました。アンテップをはじめとして、この商業文化の名残は今日でさえはっきりと見ることができます。

この商業はバビロニア王国時代も続きました。法典で有名なハンムラビ王が亡くなった後、アナトリアの中央に新たな政治国家、ヒッタイトが登場し、征服を始めました。ムルシリ1世の時代にアレッポを主従に収め、商業道もヒッタイトの支配下にはいりました。紀元前1695年にユーフラテス川に沿って進攻したヒッタイト軍はバビロンを攻撃し、ハンムラビ王家の支配に終止符を打ちました。このようにしてメソポタミアに中央アナトリアの文化が伝わりました。

バビロニア王家が滅びた頃、北メソポタミアにはフルリ人のミタンニ王国ができました。ヒッタイトと同じようにインド・ヨーロッパ語を話すミタンニの支配者層は、フルリ人たちの国家を形成しました。エジプト人たちはフルリ人の国がユーフラテス川とチグリス川の間にあったことから、ナハリナ(nhr = nehir、川)と呼びました。ミタンニが歴史に残した最大の文化遺産は、遺体焼却の伝統でした。一方で、フルリ人は馬の生産にも長けていたので、馬に関する言葉はフルリ人を通してメソポタミアの文化に入り込みました。アンテップを通る「北シリア商業道上に位置するティルメン古墳も、フルリ人のミタンニ国家の集落のうちの一つでした。神々の中の王と名付けられたクマルビ伝説は、フェニキア人や後期ヒッタイト国家によって、古代ギリシャ文明にも影響を与え、ホメロスやヘシオドスの作品もこれに大きく感化されています。

ヒッタイトの攻撃でフルリ・ミタンニ国家は弱体化し、アッシリア人が新たに歴史の舞台に登場しました。紀元前14世紀に北メソポタミアで中アッシリア時代が始まりました。大きな人口を有する都市の人々の胃袋満たすため、アッシリア人たちは豊かな土地を支配下に置こうとしました。そのうちのひとつがディヤルバクルでした。中アッシリア最強の王、ティグラト―ピレセルは、リジェ郡付近チグリス川の源流のうちのひとつであるビルクレイン川にあるレリーフに刻まれています。北メソポタミアに絶対的支配を図ろうとして行った遠征で、チグリス川の源流までたどり着いたとき、そこを「世界の果て」と表現したと言います。権力を示すために洞窟の中にレリーフを掘らせたのです。現在ディヤルバクル―ビンギョル街道のすぐわきにビルクレイン川が湧き出る洞窟で、このレリーフは3000年もの間存在し続けています。

中アッシリア時代が終わり、新アッシリア時代が始まると、アッシリア国家は多くの人口を移住させました、都市に人口を集め、農業従事者を確保し、軍隊へ兵を供給するため、何百万ものアラム語族を北メソポタミアへ連れてきました。このようにして今日のアドゥヤマン、アンテップ、ウルファ、ディヤルバクル、スィイルト、マルディンに住むスルヤニやカルディア文化の原型がこの地域へもたらされました。アラム語系の言語は後にこの地域の共通語となり、外交や商業にも使われました。この古代言語は旧約聖書にも使われました。聖書も初めてこの言語で記されました。いくつかの方言はスルヤニ語やカルディア語として今日まで生き残っています。メソポタミア文化は東地中海やクリキア(シュクルオヴァ)を通って西の文明(ギリシャ文明)へこの言語を介して伝わりました。新アッシリア国家が行った征服について、古代の契約でかなり触れられていることから、西側世界はこの文化をよく知っていました。新アッシリア国家はバスラ湾からエジプトへ、アナトリアとクリキア(チュクルオヴァ)地方まで国境を拡大し、大帝国を築き上げました。月の神シンに遣える大神官もここにいました。この時代に月の神殿も拡張されました。ハッランは新アッシリア帝国の最後の首都でした。

新アッシリア帝国が歴史の舞台から姿を消すと、新バビロニア王国がこれにとって代わりました。この王国が我々に残した偉大なる遺産はノウルーズの祭でした。 3月の第2週から始まって11日間続く、かなりやり方がきっちりと決まったこの祝い事では、主神マルドゥックを象徴する彫像の周囲で祈りが読み上げられ、供え物が捧げられ、王は神の前で儀式を執り行いました。現在では毎年3月21日にディヤルバクルをはじめとしたこの地方やアナトリアで、ノウルーズの祭が2500年間続けられています。

中央アナトリアの文明とは言え、後期ヒッタイト時代にメソポタミアには多くのヒッタイト君侯国ができました。このうち最も重要なのが、現在トルコとシリアの国境に接しており、ユーフラテス川の西岸にあった、今でもヒッタイト時代の名を受け継いでいるカルカムシュの都市です。アッシリア商業街道上の重要都市であったカルカムシュの最盛期は、後期ヒッタイト時代でした。エジプトやバビロニアの間におきたカルカムシュの戦いは、聖書にも記されています。フルリ人の信仰であった女神クババ信仰は、このまちの重要な特徴でした。この信仰は後にフリギアの豊穣の女神キベレへ、そしてギリシャのアルテミスへと変化していきました。カルカムシュからの出土品は、現在ガズィアンテップやパリのルーヴル美術館に展示されています。

メソポタミアのまた別の重要なヒッタイトの場所は、イェセメック彫刻アトリエです。ガズィアンテップのウスラヒエ郡イェセメック村にあるこのアトリエには、千以上の未完成のヒッタイト彫刻やスフィンクスがあります。イェセメックは近東地域最大の彫刻アトリエであり、グレーや紫色のトーンの玄武岩の採石場は、ヒッタイト帝国(紀元前15-12世紀)及びその後の後期ヒッタイト君侯国時代(紀元前9-8世紀)に採石されていました。イェセメックで作られた多くの彫刻が周囲のヒッタイトの集落で見つかっています、イェセメック野外博物館は、メソポタミアの暑さを逃れて涼むことが出来る林の中にあり、3000年の芸術史の旅へと皆さんを誘います。

紀元前6世紀にメソポタミアとアナトリアにおける歴史の舞台に、イランからペルシャ人たちが躍り出ました。約200年間この地を支配したペルシャ人のアハメニシュ一族とともに、東西の文明が対立しました。ペルシャ人たちは、現在でも使われている東西の商業街道、王の道を遺産として残しました。ペルシャ王ダリウス1世はペルセポリスから始まってサルデス(現マニッサ県サーリヒリ)まで続く、2699㎞に及び隊商道を整備しました。歴史の父ヘロドトスはこの街道を行き来するペルシャの飛脚たちを、「世界にペルシャの飛脚ほど素早く旅をする者はいないだろう。」と記述しています。街道はユーフラテス川をマラトヤのあたりで、チグリス川をディヤルバクルのオンギョズル橋から向こう岸へ渡っていたことが知られています。街道が通っているダレンデ、ディヤルバクル、ビスミル、スィイルトの人々が今日でも商売上手であるのは、この2500年の遺産なのでしょう。スィイルトのボタン渓谷はその時代の物語の舞台となった場所です。ペルシャの王子キロスはペルシャの王座を兄弟のアルタクセスから奪うためにギリシャの傭兵からなる軍隊をつくり、エフェスからバビロンまで更新しました。ユーフラテス川に沿ってバビロンへ到着したキロスは、ここで兄弟と戦って敗北し、戦場で死にました。すると目的を失ったギリシャ傭兵たちは、クセノポンを司令官として今度はチグリス川の北側へ向かって岐路へ着きました。これがクセノポンのアナバシスという作品に書かれた、紀元前401-400年に起こったとされる物語の一部は、スィイルトのすぐ近くのボタン渓谷が舞台となりました。

紀元前4世紀になると、メソポタミアはギリシャ文化と出会います。アレキサンダー大王は紀元前333年にイッソス(現ハタイ県/ドルトヨル)での戦いの後、ペルシャ王ダリウス3世に勝ってインドまで帝国を広げるために東へ行進を続けました。この行進のときに通ったのがウルファです。今日のバルックル・ギョル(魚の湖)の付近のいたるところから水が噴水のように湧き出ていて、大変水が多い土地であるの様が故郷のエデッサのまちに似ていたことから、ここをエデッサと名付けました。

 

アレキサンダー大王の次にセルウコス朝が残した重要な中心地は、今日のゼウグマ古代都市です。またの名をセレウキアというユーフラテス(ユーフラテス川河畔にあるスィリフケ)の都市です。紀元前300年にセルウコス朝の王セレウコス1世ニカトルによって、商業と軍事の目的で築かれました。都市の対岸にはユーフラテス川の東にアパメア古代都市があり、アパメアもパルス(ペルシャ―イラン系)の妻の名前です。古代の多くの商業街道はこのふたつの都市の間をイカダで渡るものでしたので、これらの都市には多くの税金や商業収入がもたらされました。今日アンテップの中心街にある、世界最大のモザイク博物館であるゼウグマ考古学博物館は、この都市のヴィッラから持ち出された数多くのモザイクであふれています。現在アパメアのまちは完全に、ゼウグマは一部がビレジックのダムの水底に沈んでしまっています。ゼウグマでは、このヴィッラや進行中の発掘調査からの出土した新たなモザイクを見ることができます。ピスタチオの庭の雰囲気を味わうことも、メソポタミア体験の重要なポイントです。ビレジック・ダムの水底に沈んだ場所から出たモザイクは、アンテップの中心地にあるゼウグマ考古学博物館で見ることができます。

今日のアンテップ、アドゥヤマン地方がセレウコス朝時代を過ごしているころ、紀元前162年にここに小さなギリシャ系王国であるコンマゲネ王国が興りました。首都サモサタ(サムサット)は現在のアドゥヤマン県内にあり、アタテュルク・ダムの水底に沈んでいます。東側の境界がユーフラテス川であるコンマゲネ王国があった場所は、アンテップから始まってマラトヤに至るまで、記念碑的な建造物でいっぱいです。ユーフラテス川の西岸には、南から北へ順に、ヒサル、エリフ、ハサンオウル記念墓、ローマ時代のアラバン(スプティミス・セヴェルス)橋、ソフラズ古墳、ギョクス橋、ペッレ古代都市、ローマの泉、カラクシュ古墳、ジャンデレ橋、イェニ・カレ(旧キャフタ)、セルチュクル橋、アルセメイア古代都市、ネムルット山アンティオコスの墓などがあります。コンマゲネは全くの偶然でドイツの将校ヘルムート・フォン・モルトケが1838年にこの地方を視察中に発見発見しました。2150メートルの標高にあるアンティオコスの古墳や彫刻の謎を解くために、1882年にやはりドイツ人が調査に来ました。コンマゲネ王国に関する情報は、1938年に始まった発掘調査で得られました。ドイツ人のカール・ドルネルとアメリカ人のテレサ・ゴールは、人生をコンマゲネに捧げた学者たちです。カール・ドルネルは長年旧キャフタにある、現在も残っている村家を発掘隊の家にしました。更には、自分の娘の結婚式をこの村で挙げました。もうひとりの考古学者テレサ・ゴールはというと、死後遺体を焼いて灰をネムルット山の記念墓に蒔いてほしいと遺言しました。この遺言はかなえられました。メソポタミアだけでなく、世界でも最も美しい朝日と夕日は、神々の玉座であるこのネムルット山の頂上から見ることができます。2000年も前に巨大な神の彫刻の横で、コンマゲネ王アンティオコス1世が自分のためにつくらせた墓のそばで朝日や夕日を眺めるのは、またとない体験です。ネムルット山国立公園内のカラクシュ古墳、ジャンデレ橋、アルサメイアのまちは、メソポタミア史の多くのサプライズでいっぱいです。この抒情的歴史や荘厳さのおかげで、ネムルット山は1987年にUNESCO世界遺産に登録されました。

2世紀になると、メソポタミアは東西文明の対立の場となりました。ローマ帝国ははハドリアヌス帝の時代に領土を最も東へ拡大しました。コンマゲネ帝国を滅ぼし、ゼウグマとサムサットに大きなローマ軍団を配置しました。チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域は、常にローマとペルシャ(イラン)の帝国の間で取り合いになっていました。ローマ帝国は今日のスィイルト―クルタラン近郊にあるティル(チャットテペ)まで領土を拡大しました。ローマ帝国は、当時首都がティグラナカルトであった、ペルシャに加担し、いつでも問題を起こす、(現在のスィルヴァン付近)アルメニア王国をも滅ぼしました。世界的に有名な、小説や映画、ドラマにもなったスパルタクスを滅ぼしたローマ人の司令官マルクス・リシニウス・クラッススは、ハッラン近郊で行われたペルシャ軍との戦いで死にました。一方で、彼の兄弟のゲタを殺してローマ皇帝の座に一人で就いたカラカラ帝は、ウルファからハッランに行く途中、用を足しに立ったときに自身の護衛官によって殺されました。カラカラ帝はローマ中のすべての記念碑から兄弟ゲタの名前を消させました。それらのうちのひとつが現在ネムルット山国立公園内にあるジャンデレ橋の西端にある、抜けがある柱です。メソポタミアはまた、ローマ帝国一の博識者で質の高い作家を輩出しました。サモサタ出身(アドゥヤマンのサムサット郡)のルキアノスは、当時ローマで最もポピュラーな作家のうちのひとりでした。

アレキサンダー大王がアジアやアフリカ大陸を征服したことで、ギリシャ文化と文明が東方へ伝わりました。アレキサンダー大王は征服した地域に都市を建設し、啓蒙のためにギリシャの作家、哲学者、学者をこれらの都市へ送り込みました。このようにしてイスラム・ルネッサンスよりかなり以前に、メソポタミアに科学文化の中心地ができたのです。これらの中心地のうち最も重要な都市がウルファ(エデッサ)、ヌサイビン(ヌスィビン)、ハッラン(ジャルハエ)でした。ウルファでは新約聖書のスルヤニ語による旧版が編纂され、それは西洋の聖書文にも大きな影響を与えました。ウルファの新約聖書の民衆のスルヤニ語で書かれたバージョンは校正されてから今まで、スルヤニ教会のすべての檀家たちによって使われている唯一の聖書文は、聖書の解釈に関する疑問を解き明かすために閲覧すべき基本的文献です。

ペルシャ(イラン)とローマ帝国の間につくられたヌサイビンの都市は、歴史上科学や文化の面で重要な役割を果たしました。このため、ヌサイビンには歴史の中でウム・アル・ウルム(学問の母)及びマディナット・アル・マアリフ(知識の都市)という称号が与えられました。ヌサイビンはスルヤニがキリスト教を受け入れる前から重要な学問と文化の中心地でした。ヌサイビン・アカデミー出身の数多くのペイガン・スルヤニの詩人、哲学者、科学者がいます。

世界史をてっぺんからつま先まで変えてしまった現象として、キリスト教はメソポタミアのほとんどすべての都市へ波及しました。今日アンテップ、アドゥヤマン、ウルファ、ディヤルバクル、マルディン、スィイルトには数知れないスルヤニ、カルディア、アルメニア教会があります。このうち、アドゥヤマンとマルディンの2か所にスルヤニの地方主教座が設置されています。キリスト教以前、ペイガニズム神殿として使われていた神殿のいくつかはデイルル・ザフェラン修道院のように教会となり、ディヤルバクルやウルファのウル・ジャーミーのようなモスクとなって利用され続けました。マルディンのサヴル郡(クルリット)の村のように、キリスト教の3宗派、カトリック、正教、プロテスタントの教会が隣り合わせに建っていることもあります。ディヤルバクルのウル・ジャーミーも、イスラムの4つの宗派が共に礼拝する珍しいモスクです。コーランの中にユダヤ人やキリスト教徒とともに登場するのがサービア教徒で、その信仰の中心地がハッランとソウマタルでした。預言者イブラヒム、モーゼ、イエス、ムハンマドを否定するサービア教も一神教です。礼拝をシン神殿で行います。紀元後1-4世紀の間に特にローマの軍人やエリートたちの間でかなり広まっていた信仰はミトラスイズムでした。大変神秘的で、秘密を信者にしか洩らさない教団でした。礼拝場所はたいてい光が差し込まない洞窟であり、ミトラ神は岩から生まれていると信じられていました。ミトラ神が牡牛ののどを掻き切る場面がいたるところに登場します。アンテップの中心街付近にあるミトラス神殿は、この信仰のメソポタミアでの中心地でした。ミトラス教は今日、アメリカで影に隠れて政治経済を動かしていると言われているエリートのマイノリティ宗教として、様々な陰謀の題材となっています。

イスラム教が登場してからメソポタミアはアラブ人の支配下にはいりました。最初にウマイヤ朝、その後アッバース朝がこの地方を支配しました。イスラム教が広まったのこ時代にサハーバ(預言者ムハンマドに直に触れたことがあるイスラム教徒たち)の霊廟がメソポタミアの各都市に建てられました。10,11世紀には中央アジアからトルコ系民族がやってきました。1071年にセルジューク朝がビザンツ帝国をマラズギルトで破ってから、アナトリアへトゥルクメンたちが続々と移住してきました。9世紀と11世紀には東アナトリアと南東アナトリアへ伝わったデデ・コルクット物語は、メソポタミアの一部、マルディンやディヤルバクルのまちとチグリス川周辺でも広まりました。マルディンにはエミネッディン病院やその複合施設、ディヤルバクルにはアルトゥクル宮殿、ディヤルバクルのチェルミックにはハブルマン橋、マルディン―クズルテペにはドゥナイスル・ウル・ジャーミーと橋など、メソポタミアには代表的なセルジューク朝時代の建造物があります。

12世紀に始まった十字軍の最初の遠征は成功をおさめ、十字軍はまずウルファで、後にエルサレム王になるボローニャ出身のボードゥアンを中心に1097年にエデッサ伯国(ウルファ)を建てました。同じころ。十字軍の手に落ちた他の場所は、現在キリスの県にあるラヴァンダ城塞でした。ここは北シリア、アンタクヤ間の商業街道上の重要拠点にあったことから、この地方の中世における重要な城塞のうちの一つでした。約50年間続いたは、1144年にトルコ系の王朝であるザンギー朝によって滅ぼされました。ウルファが再びムスリムの支配下にはいったことは、第2回十字軍遠征の引き金となりました。

12世紀になると、メソポタミアはイスラム・ルネッサンスの舞台となりました。科学、芸術、建築の分野でメソポタミアは黄金時代を迎えました。シュルナックのジズレ出身のサイバネティック、ロボット工学の創始者エル・ジェゼリが記した「巧妙な機械装置に関する知識の書」は、ロボット工学に関する最古の明文化された書物です。現在ディヤルバクルのウル・ジャーミーにある日時計、ハサンケイフのアルトゥクル宮殿、チグリス川から水を汲み取るポンプシステム、サズ(弦楽器)をひくロボット、象時計は、今でも知られている重要な作品です。エル・ジェゼリは、1181年に始まって25年間ディヤルバクルのスルタン、エル・サーリヒ・ナスィリュッディン・エブル・フェティ・マフムッド・ビン・ムハンメッド・ビン・カラ・アルスラン・ビン・ダヴッド・スクマン・ビン・アルトゥック(1200-1222年)や、その父親や兄弟に仕えていました。彼らのためにロボット、噴水、水差し、酒を注ぐグラス、水時計、日時計、採血装置、娯楽用ボートなど、多くの道具や装置を創り出しました。クランクやピストンを使って回転運動を直線運動に変換することに成功し、この発明はその600年後に起こった産業革命において、モーターの主運動の仕組みの元になりました。

オウス・トゥルクメン部族であるアルトゥクル君侯国は、メソポタミアを1102-1409年の間ハルプット、ディヤルバクル、ハサンケイフ、マルディンで300年間支配しました。これらの地域に比類のない建築作品を遺しました。特に教育や科学の分野に大きく貢献しました。ディヤルバクルにアルトゥクル宮殿、ディヤルバクル城壁のエヴィル・バーデンやイェディ・カルデシレル塔、ズィンジリエ、メスディエ神学校、ハサンケイフのアルトゥクル宮殿や橋、ドゥナイスル(クズルテペ)・ジャーミーと橋、スィルヴァンのウル・ジャーミー、マルディンのウル・ジャーミー、マルディンのウル・ジャーミー、アブドゥルラティフ(ラティフィイェ)・ジャーミー、チェルミックのデヴェゲチディ、ジズレの橋、マルディンのハトゥニエ、ハルゼム、シェヒディイェ、スルタン・イサ神学校など、この時代に多くの建造物が建てられました。ディヤルバクル―バトゥマンの県境にあるマラバディ橋は、当時最も大きな眼鏡橋でした。アーチがあまりにも大きかったので、旅行家エヴリヤ・チェレビはその旅行記の中で橋についてこのように書いています。「マラバディ橋の下にアヤソフィア寺院のドームが入るほどだ。」

オスマン朝時代にはメソポタミアはシーア派とスンニ派の対立の場所となりました。オスマン朝とサファヴィー朝の戦争が相次ぎました。1514年にヤヴズ・スルタン・セリム率いるオスマン軍がヴァンの北のチャルドゥラン平原でサファヴィー軍を破ってからは、この地方はオスマン朝の支配下にはいりました。ディヤルバクル付近でオスマン朝―イラン間に緊張が続いていましたが、オスマン軍がマルディン―クズルテペ付近でサファヴィー軍を破り、シャー・イスマイルはイランへ後退し、地方は完全にオスマン朝のものとなりました。

今日キリス近郊メルジダブクで行われた1516年の戦争でマムルーク朝支配が終わり、イスラム・カリフのオスマン王朝支配が始まりました。

18世紀になると、スィイルト、ティッロに住む聖人イスマイル・ファキルッラーとその弟子のエルズルム出身のイブラヒム・ハックがメソポタミアで有名になりました。イスマイル・ハックは大変高名な天文学者でした。天文学と幾何学の知識を「マーリフェットナーメ」という書物にまとめました。ティッロはその時代学問の中心地であり、神学校で有名な都市でした。イスマイル・ファキルッラーが亡くなると弟子のイスマイル・ハックは、「新年の始めに先生の頭を照らさない日の光など、何になる?」と言って、毎年3月21年と9月23日の春分、秋分の日に、日の光が恩師の霊廟の棺の頭部に当たるようなシステムをつくりました。カレ・ウル・ウスタッドという丘に設置されたプリズマに当たった光はそこで屈折し、霊廟の中のイスマイル・ファキルッラーの棺の頭部を照らします。この現象は今でも毎年3月21日と9月23日にティッロで見ることができます。これはイスラム科学史や天文学の面で重要な体験になります。ガズィアンテップにあるイスラム科学博物館は、メソポタミアの中世イスラム科学に興味がある人ならば、訪問しなくてはいけない場所です。