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ハサンケイフ

ハサンケイフは、ユーフラテス川で最も重要な峠のうちのひとつを臨む荘厳な城塞都市でした。一塊の岩山を掘って作られた城塞の下方には、カッパドキアのような洞窟住居がたくさんあります。周囲にはイスラム教時代の記念碑的建造物もあります。

ローマの歴史かたちがキパス、ケファ(Cepha)、あるいはキファスという名をつけたハサンケイフは、イスラム教時代に「フスヌ・キファ」と呼ばれ、時代と共にハサンケイフと変わっていきました。ケファはスルヤニ語で「岩」という意味です。アラビア語で「フスヌ・キファ」というのは「キファ城塞」という意味です。

ローマ時代、チグリス川上の重要な検問所のうちのひとつであったこの都市には、紀元後5世紀にスルヤニの総主教座が置かれました。紀元後6世紀及び7世紀には東方の国々独自のキリスト教教会最初の中心地のうちのひとつでした。

都市には順に、マウワーン朝(1000-1097年)、アルトゥクル朝(1101-1232年)、アイユーブ朝(1232-1461年)、アクコユンラル(白羊朝、1000-1097年)、再びアイユーブ朝(1487-1565年)の首長たちが支配しました。

アルトゥクル朝時代に最盛期を迎え、この時代に首都であったこの都市は、1301年にモンゴル人の侵攻を受けてからは昔の栄光を再び手にすることはありませんでした。オスマン朝時代には冴えない小都市として存続しました。

ハサンケイフは大変重要な歴史的集落であったにもかかわらず、ウルス・ダム計画が持ち上がるまであまり知られていませんでした。トルコ最新の一大ダムプロジェクトでほとんどが水底に沈む予定となっているハサンケイフは、その救出発掘調査、修復、搬出プロジェクトが常に話題になっています。

ハサンケイフ遺跡は1981年に第1級考古学的保護地区に指定されました。1986年にマルディン博物館総局の管理下でDr.M.オルシュ教授を隊長とした発掘隊が調査を開始しました。ハサンケイフ発掘調査は2009年以降現在までバトゥマン大学の名の下に推進されています。発掘、ドキュメンテーション、搬出作業は、ウルス・ダムに水が流されるまで続けられます。

ハサンケイフには様々な時代の数多くの建築物が建てられましたが、地震や戦争、そして保全不足のためにこれらのほとんどが今日まで残っていません。現在まで残っている作品のうち、4500ほどあると推測される、ハサンケイフを一躍有名にした手彫りの洞窟住居が筆頭に挙げられます。

ハサンケイフ城塞の門に刻まれたサソリのヘビの伝説

深い歴史を持つハサンケイフ城は、エユップ・スルタンによって建てられました。城の門の上にはサソリとヘビのレリーフが刻まれています。言い伝えによるとサソリとヘビのレリーフは城をサソリとヘビから守ってくれるということです。

城の中に入った者にはヘビやサソリが刺さないと信じられています。このお守り効果は城から外へ出ると消えてしまうそうです。エジプトから来た観光客がサソリのレリーフを盗んでしまったのでサソリ除けの効果はなくなっていまい、そのために城へ入った者をサソリが刺すかもしれないと信じられているそうです。ヘビ除けの効果は今でも続いていると信じられています。

 

イチカレ(内城塞)

イチカレは、チグリス(ディジレ)川河畔に平均で135メートルほどの高さの一塊の岩山の上に建てられています。4方は切り立った崖になっており、周囲を自然に防御されているこの岩塊には、城門で管理された2本の道からアクセスすることができます。東側には5つの記念門、西側にはチグリス川に続く門がひとつあります。自然の地形に沿った城壁と荘厳な門によって、「上方都市」として知られるイチカレは、1970年まで使われていました。

自然の地形に沿った城塞と荘厳な門で「上方都市」と名付けられたイチカレには、人間の手で掘られた多くの洞窟住居とウラルトゥ、ローマ、アルトゥクル、アイユーブ、オスマン朝時代の建造物があります。

城塞の北側、北西、東、そして中部には集落が集中していました。土地の傾斜によって段階的にできた台地には約2千の住宅、狭い小道、井戸、貯水池があり、典型的な中世都市の形相を呈しています。

北東の先端には大宮殿と庶民の住居、西側には民間人の住宅、南側の軽く傾斜した土地には墓地、霊廟、ウル・ジャーミー、東側には多くの民間建造物とモスク、礼拝所、神学校といった宗教や社会施設があります。

城塞の北側にある大宮殿は、ローマ時代は基地として使われていましたが、後に宮殿に変えられました。現在は荒れ果ててしまっています。

城塞の北東にあり、展望塔がある小宮殿は、巨大な塔のようなつくりになっています。北に面した正面の窓の上には2頭のライオンのレリーフがあります。

イチカレの最初の入り口である門と城壁、大宮殿の主な塊はローマ時代からのものです。都市のまた別の顔とも言えるアルトゥクル朝時代の作品郡も、今はその跡しか残っていません。考古学発掘調査で出土したメルディンケ・ジャーミーとコチ・ジャーミーは、大セルジューク朝時代のものです。

ウル・ジャーミーの最初の建造物は、中世最大かつ最大幅アーチを有する橋であるチグリス川に架かるハサンケイフ橋の大部分は、2004-2005年の調査で発見された霊廟の名をとって「ゼイネル・ベイ複合施設」と名付けられた建造物群のうちの2つの神学校、ハン、チグリス川河畔のハマム、大宮殿の一部からなっており、サーリヒエ庭園のパヴィリオンと城塞に引かれている初めての水道システムはアルトゥクル朝のものです。

イチカレはまた、市民が自分たちで掘って作った、へきがん(壁に埋め込まれた飾り棚)のある壁、台所、居室なども完備した完全な住居として使用されていた何百もの洞窟住居があります。イチカレは1970年にそこの住んでいた市民が現在の集落に降りたことで放棄されました。

ゼイネル・ベイ霊廟

この霊廟は1462-1482年にハサンケイフを支配していたアクコユンル朝の支配者ウズン・ハサンが、オトゥルックベリの戦いで負傷してここで亡くなった息子ゼイネル・ベイのために建てたものです。アナトリア以外における建築と装飾が素晴らしい構造、プラン、レンガ建材、装飾でアゼルバイジャンに1322年に建てられた霊廟にも類似しています。

ゼイネル・ベイ霊廟は、外側からは円筒形に見えますが、内部は8角形のプランになっています。本体部分はターコイズブルーと紺色の釉がかかったレンガと、モザイク状のタイルで構成された植物と幾何学模様が表現されているほか、「アッラー、ムハンメッド、アリ、アフメッド」という言葉からなるクーフィー書体のアラビア語カリグラフィーも見られます。上から下に向かって読むマキリ書体の書は、濃紺やターコイズブルーの釉がかかったレンガを縦方向に積み重ねてできています。

 

ハサンケイフ橋

ハサンケイフ橋は、メソポタミアとアナトリアを結ぶ橋です。ハサンケイフ橋は約40メートルのアーチ幅で、中世で最も荘厳かつ最大の石橋です。橋の南側の橋げたには星座を象徴した12の大きなレリーフがあります。

ハサンケイフはメソポタミアとアナトリアの間の重要な中心地であり、商業道上に位置していたので、最初の橋はおそらくローマ時代に造られたと思われます。現在の橋はローマ時代の橋の基礎の上にアルトゥクル朝によって建設されたものと推測されています。

12世紀のものと思われるこの橋から、現在チグリス川の左岸に小さなアーチと、中央及び右岸には橋げたのみが残っています。

エル・ルズク・ジャーミー

アイユーブ朝の支配者スルタン・スレイマンによって1409年に建造されました。南側の礼拝場は地滑りで川に落ちてしまいました。現在は聖域の北壁と中庭の入り口正面、正門とミナレットのみが残っています。

モスクの北東側の角に隣接している高い正方形立方体の土台の上に建っているミナレットは、小さなモザイク状に切られた色付きの天然石が螺鈿技術によって、細い幾何学模様に積み重ねられています。シェレフェ(ミナレットのバルコニー部分)には二つの階段から上ることが出来、本体部分にも幾何学模様の装飾やクーフィー書体のアラビア語の書が見られ、感動を呼び起こす美しさです。

エル・ルズク・ジャーミーには大変ドラマチックな物語があります。

「スルタン・スレイマン・ジャーミーのミナレットの建設中に親方と職人の間で建築技術のことに関して諍いが起き、職人は親方に追い出されてしまいました。親方がスルタン・スレイマン・ジャーミーのミナレットを手掛けている最中に、職人はエル・ルズク・ジャーミーのミナレットの建設も請け負います。親方と職人の努力の結果、壮麗なミナレットは二本とも天へ向かって伸びていき、しばらくして二本とも完成しました。親方の手掛けたミナレットの除幕式は大変豪華なものでした。職人も自分が手掛けたミナレットの除幕式に親方を招待しました。親方が階段を検査するために上へ上ると、そこにはすでに職人が待っていたので驚きました。どうやって自分より先に上ったのかと尋ねると、職人はもう一つの階段から上ってきたと言います。すると親方はもう一つの階段を見て驚きました。職人はミナレットに二本の階段を造ったのです。この二本の階段を上る者たちはお互いが見えません。親方は自分が作ったミナレットには1本しか階段がないことを思い、職人が自分を追い越したことを認めたくなかったので、ミナレットの上からチグリス川へ身投げしました。」

スルタン・スレイマン複合施設

アイユーブ朝スルタン・スレイマンによって1407年に建てられました。モスクは神学校、貧民救済所、霊廟からなるキュリイェ(複合施設)の東端にある霊廟には、1432年に亡くなったスルタン・スレイマンが眠っています。スルタン・スレイマン・ジャーミーの最も重要な部分は現在まで残ることができたミナレットと正門のみです。きっちりと裁断された石をていねいに積み、装飾されたミナレットは、隣接する正門やその南側の泉亭とともに記念碑的なファサードを形成しています。

スルタン・スレイマン・ジャーミーには大変ドラマチックな物語があります。

「スルタン・スレイマン・ジャーミーのミナレットの建設中に親方と職人の間で建築技術のことに関して諍いが起き、職人は親方に追い出されてしまいました。親方はスルタン・スレイマン・ジャーミーのミナレットを手掛けている最中に、職人はエル・ルズク・ジャーミーのミナレットの建設も請け負います。親方と職人の努力の結果、壮麗なミナレットは二本とも天へ向かって伸びていき、しばらくして二本とも完成しました。親方の手掛けたミナレットの除幕式は大変豪華なものでした。職人も自分が手掛けたミナレットの除幕式に親方を招待しました。親方が階段を検査するために上へ上ると、そこには職人が待っていたので驚きました。どうやって自分より先に上ったのかと尋ねると、職人はもう一つの階段から上ってきたと言います。すると親方はもう一つの階段を見て驚きました。職人はミナレットに二本の階段を造ったのです。この二本の階段を使う者たちはお互いが見えません。親方は自分が作ったミナレットには1本しか階段がないことを思い、職人が自分を追い越したことを認めたくなかったので、ミナレットの上からチグリス川へ身投げしました。」

イマーム・アブドゥッラーの修道場

イマーム・アブドゥッラーの修行場は、預言者ムハンメッドの家系であると信じられている、地方の民から大変尊敬されているイマーム(説教師)アブドゥッラーの修道場と霊廟の周囲に、時と共に発達していった複合施設です。

もともとの修行場は、12世紀にアルトゥクル朝時代のこの建造物はアイユーブ朝スルタン、タクイェッディン・アブドゥッラー(1249-1294年)のときに建てられました。

霊廟入り口の修復された碑文には1478年にアクコユンル朝によって修復されたと記録されています。