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信仰

アナトリアとメソポタミアは宗教のゆりかごです。

宗教が生まれ、庇護され、伝播した、比類のない土地です...

古代から現在に至るまで、多神教から神秘主義に至るまで、すべての信仰の歴史の跡をこの土地で見ることができます。この歴史の跡は皆さまに発見されるのを心待ちにしています...

世界で初の神殿がメソポタミアにあったと言えば、この地域の宗教や信仰との深い関わりが理解できると思います。現在から11,600年前にまで遡ると推定されているギョベックリ・テペ神殿は、人類が建てた初めての神殿であり、シャンルウルファ県内にあります。

ギョベックリ・テペの発見は、人類史を変える出来事でした。ギョベックリ・テペの発見までは、人間は先に定住をはじめ、その後崇拝を始めたと考えられていました。しかしギョベックリ・テペはこの順を覆してしまいました。人間は先に隔絶し、神殿を建て、崇拝を初めて礼拝をおこなうようになりました。その後神殿の周囲に集落がつくられたのです。

考古学的にも陶器時代に入る前、新石器A時代(紀元前9.600-7.300年)のものとされるギョベックリ・テペに、丘の上に建てられた多数の円形建造物が発見されました。1995年に考古学考古学者クラウス・シュミット教授率いるドイツ考古学研究所の支援で開始された発掘調査によると、この建造物は定住の目的で作られたものではありませんでした。ギョベックリ・テペで発見された、全部で20ほどあると言われている宗教施設のうち発見されているのは6つであり、それらは世界初の神殿です。新石器時代、つまり石器時代から残っているこの神殿の建築方法には特徴的な共通点があります。T字型の列柱で囲まれた神殿の中央に2本のT字型の柱が向かい合って立っています。ほとんどが円状の形態になっている神殿のいくつかは、らせん状になっていますが、どの神殿にも屋根はありません。

考古学者たちは3-6メートルほどの高さの様々なT字型柱が様式化された人間を表現していると考えています。それは、T字型の柱には腕や手の形態が見られるからです。また、この柱には動物や具象的なシンボルも彫り込まれています。

牡牛、イノシシ、キツネ、ヘビ、ツル、カモなどが、最もよく描かれている動物です。石の上に彫り込まれたこの動物の描写とは別に、3次元のレリーフも見つかっています。それらのレリーフの中でも最も重要なものは、T字型柱の側面に下方へ向かって描かれたライオンです。

ギョベックリ・テペが現在までこれほど完璧な姿で残っていることも、考古学者を驚かせています。建設されてから約千年後に何十トンもの土や小石で埋められたことがわかっているギョベックリ・テペが、なぜ埋められたのということも謎のリストに入っています。

様式化された人間の形態が描かれたT字型の柱の重さは40から60トンです。原始的な道具以外何も道具がなかったこの時代に、柱がどうやって運ばれ、立てられたのかも、考古学者らをもってしてもまだわかっていません。

ここで申し上げておきますが、ギョベックリ・テペの柱を1本立てるには525人の男性の力が必要なのです!

同心壁で囲まれた湖の神殿は建設年から約千年後に、チャイオニュ、ハラン・チェミ、ネヴァリ・チョリにも同様のカルト建築が建てられたことがわかっています。ギョベックリ・テペはこういったカルト建造物の先祖である可能性が高いのです。

現状において、古代の見識のシンボルであるイギリスのストーンヘンジよりも7000年、メソポタミア最初の都市ができてから5500年古いギョベックリ・テペは、我々に歴史を見直させる情報を提供しています。

神殿の建設は、儀式のための集合場所やあるいは集合した人々の統制という重要な組織を必要とするものです。これらすべてを満たすのは当時ほとんど可能ではなかったにもかかわらず、ギョベックリ・テペの住人たちはそれをやってのけたわけです。この「唯一性」は、近々UNESCOに登録されます。

ギョベックリ・テペは、今から何千年もの昔、人間の手でこのような建築をどのように建設したのか、信仰システムがどのようなものであったのかといういくつもの疑問を内包し、訪問者を待っている、神秘的で重要な神殿の場所なのです。

紀元前9500-4500年の間の新石器時代の(狩猟採取生活から定住、農耕生活、村や都市形成に至るまでの人類史における最も波乱に満ちた時代)この地域最大の集落のうちのひとつであるのが間違いないチャイオニュ(ディヤルバクル―エルガニ郡)及びここで発見された神聖な空間である「頭蓋骨の家」も、この地域の祖先の文化に関する最重要発見のうちのひとつです。紀元前8700年のものと推定されるチャイオニュ頭蓋骨の家は、ディヤルバクル博物館やチャイオニュ遺跡で皆さまのお越しを待っています。

この地域で行われた数十の発掘調査の出土品から、古代の多神教の跡をたどることが出来ます。発掘で出土したメソポタミアの神々を、例えば月神シンや太陽神シャマシュ、僧の形態、さらにはシュメールの有名な大きな目をした僧を、ガズィアンテップ、シャンルウルファ、ディヤルバクル、バトゥマン、マルディンの博物館で見学することができます。

自身を「千の神々の国」と言ったヒッタイト末期の神々、つまり紀元前1000年頃の神々は、イェセメック彫刻アトリエで、桑の木の下に、静寂の中で皆さまをお待ちしています。

古代のメソポタミアの多神教に似た信仰体系(ペイガニズム)の跡は、コンマゲネ、ゼウグマ、ソウマタルで見ることができます。

ミトライズムは古代ギリシャやローマ世界の、エレウスィスやイスィスの謎として知られているまた別の密教において、つまり秘伝的なものとしてとらえることができる伝統でもそうであるように、この教団に受け入れられた者だけに打ち明けられる秘密を軸にして発達した神秘的なローマ文化です。紀元後1世紀から4世紀の間、ローマ帝国の兵士たちの間で広まりました。ミトライズムは、最も神秘的信仰のうちの一つです。ミトライズムの神秘性は、この宗教に受け入れられた者たちに打ち明けられた秘密を軸にして構成されました。ミトライズムの神髄は謎であり、この教えに関する文書はありません。

今日、ガズィアンテップであるドリジェ(ドゥルック)古代都市は、ミトライズムに属する重要な場所のうちのひとつです。世界で周知されている地下建造物のミトライズム神殿(ミトラエウム)の最大のものがふたつ、ドゥルックで発見されました。自然界最強の動物、牡牛を犠牲にし、その血で洗い、血を飲み、牡牛を象徴化した神の力や不死性へ到達することを表現した儀式は、神秘の力の家とみなされた地下神殿で行われました。ドリジェ最大のミトラエウムは、ふたつのサロンがある地下神殿の神の場所ともいえる中心の窪み部分には、タウロクトニという名の牡牛を犠牲に捧げる場面がレリーフで表現されています。

今日、ネムルット山として知られている地域を紀元前1世紀に支配していたアンティオコス王は、大きな目的を持って新たな宗教を興そうとしました。ギリシャとペルシャの宗教を統一し、この二つの文明の間に挟まれた地域であるアナトリアで誰もが信じる信仰体系を構築することは、アナトリアやメソポタミアのような地域でしか思いつくことはできなかったでしょう。神聖とされるネムルット山に神殿の場所をつくり、今日観光化されている彫像をつくらせたアンティオコス王は、自身を神だと称することを夢見ていました。短い期間ではありましたが、この融合宗教に信者がつき、その後も長い間影響を遺しました。

コンマゲネで最重要王国都市のうちのひとつであるゼウグマにある、ローマ時代のヴィッラの床面モザイクには、ギリシャ神話の素晴らしい場面が描かれています。エロス(愛)とプシケ(精神)の物語、ゼウスがエウロパをさらう物語、ペルセウスとアンドロメダの物語などです。

この物語を詳しく見たいと思ったら、必ずゼウグマ・モザイク博物館やゼウグマ遺跡に行ってみてください。

メソポタミアがペイガニズムの跡を残している一方で、3つの宗教の記念碑的建造物が皆さんを出迎えます。

スルヤニ人...

キリスト教を最初に受け入れた人々...

スルヤニ人たちの起源やどこから来たのかということについては3つの説があります。スルヤニ人たちはアラム人から派生したという説、スルヤニ人たちがメソポタミアに帝国をつくったアッシリア人たちの子孫だという説、最後のものはスルヤニ人の起源は全メソポタミアの民だという新しい説です。

スルヤニ語は紀元前1000年に話されていたメソポタミアの言語であったアラム語から、何百年もかけてキリスト教の影響を受けながら形成されていった豊かな言語です。スルヤニ人たちは紀元後37年にキリスト教を受け入れると主に、教会を中心として組織化しました。古代ギリシャ語の書物がアラム語やアラビア語に翻訳され、現在まで伝えられているのは彼らのおかげです。

スルヤニ人は歴史家には西及び東スルヤニ人と区分けされています。西スルヤニ人は地理的にはディヤルバクル、アンタクヤ、マラシュ、ウルファ、マルディン、ミディヤット、ヌサイビン、そしてシリアに住んでいる人々で、東スルヤニ人とは、イランとインドに住んでいる人々を指しています。歴史的に中心地がマルディンであったスルヤニの原住民(スルヤニ正教徒あるいはヤクービ教会)の社会と、モル・ナストゥリ(聖ネストリウス、モル・バルサウモ)の見解を中心に集まった集団もネストリウス派と言われる東スルヤニ人を形成しています。

ネストリウス派の中の、後に1500年代にカトリックに改宗したカルディア人、カドゥキョイ宗教会議の決定を受け入れた者を、この決定の賛同者という意味の「マルコイェ・マルキット(メルキットレル)」、「マロニット総主教座」に属する者たちを「マルニレル」、イスラム教を選んだ者たちは「マルミレル」と呼びます。

修道院、教会、礼拝堂はいまだにトゥル・アブディン地域にあり、見学や朝の礼拝に参列することも可能です。

紀元後397年に建てられた府主教座モル・ガブリエル修道院(ミディヤット)と、それよりも古いデイルル・ザフェラン修道院(マルディン市内)以外に、ギュルギョゼ(アウンイェルド)村と村のマル・ハッドゥ・ブシャボ教会、アルトゥンタシュ(クフェルゼ)村、そして壮麗なマル・イゾゾエル教会、アヌットル(ハフ)村、そして村にあるトルコ最古の、もしかしたら世界最古の現存し、未だに使われている教会のうちのひとつである聖母マリア教会、バルシュテペ(サラフ)村と初期ビザンツ時代から残るマル・ヤクップ教会、少々トスカーナやカッパドキアを彷彿とさせるイズブラカン(ザズ)村とその教会は、トゥル・アブディン地方必見の素晴らしい建造物です。

聖書が新たに書かれた場所と言われているルムカレは、特にキリスト教世界にとって大変重要な建造物です。初期キリスト教時代、預言者イエスの12人の使徒のひとりであるヨハネは、ユーフラテス川のほとりにあるルムカレを本拠地としました。ここでヨハネは聖書を執筆しました。ヨハネの聖書の写本がベイルートに持ち去られたと言われていますが、ヨハネの墓はルムカレにあると言われています。

紀元後638年にアラブ人のイスラム軍が侵攻し、この地はイスラムと出会いました。そしてこの新しい宗教は急速に広まりました。イスラム建造物の最も素晴らしいものは、間違いなくアルトゥク朝時代のものです。

イスラム教、キリスト教やユダヤ教が先祖と認めている預言者イブラヒムがウルファで生まれたこと、そしてここである一定期間住んでいたことで、シャンルウルファはこの3つの宗教にとって聖地となっています。

シャンルウルファはキリスト教を最初に受け入れた都市です。また、預言者イエスがウルファの王の病気治療のために送ったというハンカチーフは、キリスト教徒にとって神聖なものでありますが、失われているので今でもウルファのどこかにあると信じられています。

ユダヤ人にとってもシャンルウルファは「約束された地」の中に入っています。アルズ・メヴドゥット(ユダヤ人が自分たちに与えられたと考えている土地)は、預言者イブラヒムに約束された土地の大部分であるため、シャンルウルファとその周辺は神聖な場所と考えられています。預言者モーゼの祖先であるヤコブは、ウルファに14年間滞在し、その後モーゼも一時期住んでいたことがありました。

預言者ムハンマドの祖先とされている預言者イブラヒムはウルファで生まれ、ウルファに生きました。このため、ウルファはムスリムにとって大変重要な都市なのです。また、聖人エユップもこの地にいましたし、聖人シュアイブ(ジェスロ)などの多くの聖人たちがこの地で生まれ、暮らしていました。ですからシャンルウルファは「預言者たちの都市」と言われています。

ディヤルバクルはセム語族の三大宗教の中心地のうちのひとつです。この都市には3つの宗教の礼拝所、宗教の中心地が隣り合わせに仲良く共存しています。3つの宗教が認めた預言者の聖職位もディヤルバクルにあります。

預言者ムハンマドの多くの友人たちの墓もここにあります。聖人フセインやハサンの子孫であるセイイッドたちの故郷もデイヤルバクルです。

ディヤルバクルの城壁内にある城塞には、聖人フセインが悪霊を鎖に叩き付けたという言い伝えがあるモスクがあります。また別の言い伝えによると、イスラム軍の司令官ハリッド・ビン・ヴェリッドの息子スレイマンは、ディヤルバクルで行われた戦いで戦死し、その名がまつられたモスクが建てられたということです。

このモスクに隣接して預言者ムハンマドの27人の友人の墓があります。地元の人々は毎木曜と金曜にこの墓を訪れ、祈りを捧げて願をかけるということです。ここはディヤルバクルにとってなくてはならない場所でもあります。

ディヤルバクル・ウル・ジャーミーは、イスラム世界では第5のハレミ・シェリフ―聖なる神殿として認められています。中世の旅行家エヴリヤ・チェレビが伝えるところによると、「このモスクは昼夜と言わず信者が訪れ、70-80もの墓所で様々な学問が教えられている。多くの場所で善良な市民たちが試練を受け、神を称え、瞑想に耽っている。」

ウル・ジャーミーはイスラムの4つの宗派がともに礼拝をおこなうたぐいまれなモスクです。

ディヤルバクルのエイル郡は、多くの預言者の霊廟や聖職位があったことから、小さな宗教の中心地となっていました。

サルナーメ(昔の年鑑)によると、ディヤルバクルには5人の預言者たちの霊廟や聖職位があったと書かれています。預言者といわれているスレイマンの秘書、ネビ・ハールン・イ・アサフィの霊廟、ネビ・ズンヌンの霊廟、(言い伝えによってはこの人物は聖人ユヌスだという説もある。コーランに聖人ユヌスの名前がズンヌンとして出てくることから(エウ・エンビヤ章21/87))、預言者エリシャの霊廟などです。

エリシャの名は、コーランに数多く登場します。元の名はエリシャ・ブン・ウフトゥブ・ビン・アジュズといいます。預言者イリアス(エリヤ)がイスラエルたち(イサク、ヤコブを先祖としたセム語族)の宗教的な長であり、後から彼にに預言者の位が与えられたと言われています。このため、預言者エリシャはイスラム教世界にとっても、ユダヤ教世界にとっても重要な預言者となっています。

エイルにある預言者の墓地を見ずに、メソポタミアを去らないでください!

預言者ズルキフも同じような過去を持っています。聖人ズルキフとエリシャはお互い叔父の子供同士であり、ズルキフはエリシャの後にイスラエルたちの預言者となりました。元の名はハズクヤ、ハズキ、ハズキル、ハゼケルだったと言われています。ズルキフはアラビア語ではハズィヤです。喜び、縁という意味です。また別の言い伝えによると、2回もエリシャの保証人になったため、ズルキフというあだ名がついたとも言われています。

コーランにも登場する聖人ウゼイルの聖職位は、アドゥヤマンのキャフタ―ゲルゲル街道上にあります。この墓を訪れ、ネムルット山の宗教区域へ上ることもできます。また別の重要な霊廟はというと、エユップ・エル・エンサリとともに場所がはっきりとわかっているのは、預言者ムハンマドの二人の友人のうちのひとりであるサフヴァン・ビン・ムアッタル廟です。この霊廟には毎年何千人もの人々がお参りに訪れます。

預言者ムハンマドが「彼には慈悲以外のものを感じたことがない」と言って栄誉を与えた、伝記作家によると道徳の象徴とされている、アフヴァン・ビン・ムアッタルの聖職位もアドゥヤマンにあります。霊廟はアドゥヤマン―キャフタ街道をサムサットから中心街方面へ17㎞行ったところです。

アブゼル・エル・ガッファリ、エル・エンサリ、アブドゥルラフマン・エルズィンジャニの聖職位もアドゥヤマンにあります。キャフタ付近のナクシベンディ教団の重要な中心地のうちのひとつであるドルック村(メンズィル)にあります。村には毎年何百万人もの人々が訪れます。

聖人ユシャと聖人ピルセファの聖職位は、ガズィアンテップの中心、銅製品バザールにあります。ユシャは預言者モーゼの甥にあたります。ユシャはイスラエル人であり、モーゼの次に預言者になった人です。ユシャには現在まで残っている3つの墓があると言われています。そのうちの一つがバグダットであり、次がイスタンブル、そしてガズィアンテップです。ピルセファもユシャの横に眠っています。

旅行家エヴリヤ・チェレビは、キリスの殉教者墓地に3千の木造の墓があり、そのすべてがハリット・イブニ・ヴェィッドの時代に戦死した人のものだと書いています。その昔、キリスの人々はここを通るときに神聖なるムハンマドの友の殉教者たちへ敬意を表するため、靴を脱いでわきの下にはさみ、裸足で前を通ったといいます。今日は大通りの片隅に、「殉教者」とと書かれた墓地が、その場所を示すために象徴的に建てられています。

マルディンは重要なイスラム教建築を有しています。その建築物は大体アルトゥクル朝時代に建てられました。カスミエ神学校がそういった建造物の筆頭に挙げられます。カスミエ神学校は、サイバネティックの創始者とされているエル・ジェゼリの博物館となっており、見学が可能です。

アルトゥクル朝時代から残っているもうひとつの重要な建造物はハトゥニエ神学校です。預言者ムハンマドの足跡もここにあると信じられています。

マルディン初のモスクであるウル・ジャーミー(ジャーミ・ケビル)は、マルディンにまた別の彩を添えています。アルトゥクル朝時代に建てられたこのモスクは、女性用の礼拝場所がある初期の例として傑出しています。

ラティフィエ・ジャーミーにはふたつの大門があり、この門は内部の美しさと魅惑を表現しています。朝、礼拝の後にモスクの中庭には礼拝者のためにいつでも用意されているチャイを飲まなければ、ここへ来たことになりません。

マルディンの中心街の秘密の楽園として我々の目の前に現れる、アナトリアで初めての教会であるエミニュッディン・ジャーミーも必見の場所です。

マルディンのヌサイビン郡にある「宗教の庭園」には、モル・ヤクプ教会とゼイネル・アビディン・ジャーミーがあります。預言者ムハンマドの子孫であると言われているゼイネル・アビディンの霊廟もここにあります。同じ庭園内にスルヤニのキリスト教徒たちの最初の教会とモスクがあることで、この庭園は「寛容の庭園」として非常に重要なものになっています。

スィイルトの、特にティッロは多くのイスラム知識人やムハンマドの友の聖職位や霊廟を有しています。特に科学、文学のふたりの学者が有名です。その学者の一人であるエルズルム出身のイブラヒム・ハック・エフェンディは、その教師であるイスマイル・ファキルッラーに敬意を表するためにある方法を思いつきます。先生の霊廟から3㎞東にあるボタン渓谷を望む丘から、3月21日の春分、9月23日の秋分の日の最初の朝日の光が、先生の墓石の先端に当たるようにしたのです。

イスマイル・ファキルッラーはティッロの精神的世界を形成した人物の筆頭に挙げられます。彼はエルズルム出身のイブラヒム・ハック・エフェンディの教師でした。もうひとりの学者、スルタン・メムドゥフというと、イブラヒム・ハックの弟子でした。スルタン・メムドゥフの墓に刻まれた詩には、天国と地獄が表現されており、必見の価値があります。ティッロの精神生活を垣間見るためには、ここにとどまって神学校の授業を受けられることをお勧めします。

スィイルトのまた別の重要な中心地は、バイカン郡にあるヴェイセル・カラニ廟です。伝説によると、預言者ムハンマドの時代に生きたというヴェイセル・カラニは、ムハンマドに大変会いたがっていたにもかかわらず、母親をひとりおいて行かれなかったために願いがかなわなかったということです。それを知ったムハンマドがヴェイセル・カラニに自分の上着を贈ったと言い伝えられています。霊廟には国内外から毎年何千人もの人が訪れます。

ノアの箱舟は、セム語族の3大宗教にとって大変重要な位置を占めます。何故だかはわかりませんが、キリスト教徒にとってはアウル山が、ムスリムにとってはジュディ山が神聖な山となっています。春にシュルナック県にあるこの神聖な山を訪れてみてください。

ユダヤ教徒にとってこの地方が神聖な地であることは、特にシャンルウルファの章で前述した通りです。残念ながら現在も運営されているシナゴーグはありません。ガズィアンテップにあるシナゴーグは修復されて文化センターになりました。キリスのシナゴーグも近々修復されることになっています。

マルディン、シュルナック、北イラクに暮らすまた別の宗教の民にエズィディ教徒がいます。エズィディ教とイェズィッド教は別のものです。エズィディはイスラム教にもある預言者アリの息子たち、フセイントハサンをケルバラで殺したイェズィッド教徒とは関係ありません。(日本では同一のものとされて、「ヤジディ」と言われることが多い)

エズィディ教徒に道を指示したのはイェズィッド・ビン・イズディヤンと、ウマイヤ朝スルタンのイェズィッド・ビン・ムアヴィエは名前が似ているだけだと言われています。

エズィディ教徒はムアヴィエの息子イェズィッドの後をついていかず、自分たちを預言者を持たない民という意味のエズダと見なしていると言われています。この民は北イラクのクルド人の中でエズィディと呼ばれており、トルコ語と英語ではイェズィディと言われています。

エズィディ教徒は自分たちをアッラーの親愛なる奴隷とみなしており、シェイフ(イスラムの導師)・アディイが神の啓示を受けたと信じています。マラク(メレッキ・天使)・ターウースは悪魔ではなく、アッラーが真実を誤らせるために送ってよこした使者としています。エズィディは布教活動をしないいのであまり広まっていません。礼拝所も持たないエズィディ教徒は、シェイフたちの墓参りをします。

エズィディ教徒にはその教えが説かれた2冊の経典があります。この経典には一神教が強調されており、預言者はいません。エズィディ教徒が改宗することは禁じられており、宗教的に罪になります。同様にあとからエズィディになることはできず、エズィディに生まれることが条件です。

エズィディ教徒は朝、昼、晩と一日に3回祈りを捧げます。これ以外に4月の第2週目に「赤いシーツの祭り」の3日前から断食をします。